しんどいこと 大人になること 20年を振り返ること

最近の私はほとほと参っていて、正直病気だ。

誰かに病名を言い渡された訳ではないけれど、自分の体とあと少しで20年のお付き合いになる私がそう宣言するのだから、病気なんだと思う。

心の病なんだと思う。

何もしたくない。すべてを傍観していたい。何者(物)にも関わることなく、できることなら部屋も出たくない。

文字にするとすごく甘ったれたことを言っているなと、ちょっと冷静になるけど、今の私はだいぶ参っているんだと思う。

 

私は昔からなんだかんだ言って弱い精神をしていると思う。

普段は結構明るくてうるさいのに、弱かったりする。

友達と笑って会話するのも大好きだし、勉強も運動も好きだ。

苦手とは別に、自分次第で何もかも楽しむことのできる人間だと思う。

でも、その一方で、すごく生きるのがしんどいなと思うことも結構ある。

あんまり人間向いていないなぁと感じることがある。

普段明るく振る舞っていると、周りにどうやって自分が弱っていることを伝えればいいのかわからない。

昔はしんどい時は泣いていた気がする。訳も分からない涙が出てきて、母親に「何の涙??」とよく責められていた記憶がある。

何で泣いていたのか、今考えてもよくわからないけど、ただその時は人に涙を見せることはあまり良くないことなんじゃないかって思っていた。

なんでそんなこと思ったんだろう。泣くことをやめなきゃよかった。

弱いと思われるのが嫌だったような気もする。

今はぜひとも私をみんなの中で弱い人間に置いてほしいけど、子供ながらに泣くことで「女は泣けばいいと思っている」なんて思われるのがすごく嫌だった気がする。

だから、泣くのはいつも母親の前だった。

友達に酷い事を言われると、涙のダムが決壊するのを必死にこらえていたけれど、家に帰って親にその時の悲しかったことを話すと、引いたと思っていた水が一気にどばってきて、ずっと悲しくて悲しくて泣いていたような気がする。

 

自分の弱さを決して嫌なものだとは思っていない。

ただ、私がいくら自分の弱さが嫌いでなくとも、周りはそうじゃない。

 

哲学の祖 ソクラテスが「無知の知」と言って、知らないことを知っているといって周りと議論するみたいな話があるけど、私は自分の弱さをソクラテスのように周囲に示して、それが強さであることを証明することはできない。

 

いくら私が「疲れた」とか「死にたい」とか言っても、みんなにその言葉は流されるんじゃないかって思う。

みんな大きさや形は違うけど、辛いと思うから。辛いのが私だけじゃないのを知っているから余計私の弱さを人に背負ってもらうことを恐れている。

 

この20年間を振り返って、私は人として何も得られてはいないんじゃないかと不安にもなる。

中学時代も、高校時代もそれなりに学べたことはあるけれど、全体を通して見ると、その経験は自分の人格形成の要素であって、私の人間としての知を得ることができていないんじゃないかと、最近思うことがある。

 

私の中で人格形成の期間は過ぎた感覚がある。

だから、余計に何かを学ばなきゃって焦りがあるし、何も学べていないことに恐怖を感じる。

どんな人になりたいとか、何歳までにこうなるなんていう具体的な人生設計があるわけじゃないのに、何を生き急いでいるのかは分からないけど、今私が何も考えずただ休むことができる大義名分が欲しかったりもする。

病院行けって話ではあるんだけど、インドネシアって精神科あるのか???高そう